午後四時に起きました。……一瞬にして、生活が元に戻ってしまった。あれ、おかしいな……昨日のブログ記事は見間違いかな……。
さて、今週の水曜にはもう台湾行くというのに、全然準備もせず、ゲームや執筆の日々。昨日はあと鍋作って食べたぐらいで、他に特筆すべきこと全くやってないや……。
今日は何度寝もしたせいか色んな夢を見たのですが、「クーラーに洗濯機の部品を取り付けたら水が止らなくなった」やら「蛙人間になって悪霊を討つ」やら「ホストから一千万騙し取った上で、なぜかこちらが説教する」だの、本格的に意味の分からない夢でした。
こういうのは基本忘れるんですが、なんか今日はまだ残ってます。印象強かったんでしょうかね。以前ドラマガ用の短編で書いた(次の短編集に入る)、「二年B組の就寝」で、異様な夢の描写をやりましたが。あそこまでじゃなくても、結構、意味不明の夢は見ますよね。
でも、夢の中では、完全に筋が通っていたんですよ。上記したような妙な状況も、夢の中の私としては、極めて自然な流れでやっていたはずで。
この考え方をよくよく突き詰めると、小説や物語の作りに関して大事なのも、こういうことなんじゃないかと。
つまり、普通に見たらワケの分からない話を、読者に(受け手に)納得させるというか。
「ジャミスが邪龍炎陣をオーバードライブさせ、《天核》に至らせることで、上弦の海を極限までフォースライドさせた」
みたいな。いやもう、書いていて意味が分かりませんが。こういうのを、文庫一冊なり数冊なり使って、読者に「あー、なるほどね」と分からせるのが、割と重要なことなんじゃないかと。
……いやまあ、かなり偏った例題ですけど。現代を舞台にした普通の話とかだと、こんなことにはならんけど。それでも、「明美が死んだ」という文章があったとして、これ単体だと意味不明文章ですが、ここまでにその「明美」さんについて、とにかくいい人で素晴らしいひとだという描写してあれば、この一文が滅茶苦茶悲しかったりするじゃないですか。
んで、こういうことを考えていくと、意外と重要なのは「結論」じゃなくて、「過程」なんじゃないかという気が。
同じ「明美が死んだ」でも、それまでに明美が如何に邪悪で最悪なラスボス的人間だったか語られてれば、そこは、喜ばしい場面かもしれないですしね。
そんなわけで、生徒会最終巻は「ジャミスが邪龍炎陣をオーバードライブさせ、《天核》に至らせることで、上弦の海を極限までフォースライドさせた。結果、碧陽学園には恒久の平和がもたらされたが、一方で、ドルゴ達の世界は《修羅円盤の無》に飲み込まれることとなってしまったのだ」という終わり方にします。
大事なのは過程なんだから、いいんじゃないでしょうか。
…………。
うん、いや、やっぱり結論も大事だよね。
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