吉村加奈子が暴れだした時、院内は騒然となった。
よくあること……でもないのだが、まあ、入院患者が暴れだすことは、それなりにはあるらしく、僕と吉村とその時一緒にいた春沢さんは、この事態に然程取り乱しはしなかった。吉村加奈子の精神状態が芳しくないことも春沢さんは知っていたし。
ただ、落ち着いていることと、相手を取り押さえれるかどうかというのは、別問題で。
吉村加奈子は凶悪だった。果物ナイフにすぐに手をつけた時点でもう致命的だった。最初の一手が、最良の一手だったのだ。僕らは下手に近づけないどころか、いや、吉村加奈子は僕に向かって躊躇いなくナイフで切りつけてくるもんだから、もう……取り押さえるどころか防戦一方。
さすがに患者の沢山いる場所で暴れられると、それこそ色んな意味で大惨事になりかねないと察し、僕は逃げた。人の居ないほうへ居ないほうへと、ただガムシャラに逃げた。
別に、他人なんて本当はどうでもよかった。誰が傷ついたって、知ったことではなかった。ただ……春沢さんが刺されるところなんて見たくなかったし、それ以上に、吉村加奈子が致命的な間違いを犯してしまうことが、いやだった。被害者より加害者の心配をするとは、僕も、いよいよひねくれているらしい。
テレビドラマを見ていると、よく主人公に「なんで行き止まりの方に逃げるんだよ!」と言ってしまうが……僕にはそのツッコミの権利はない。なぜなら、この時、僕は屋上に向かって逃げたからだ。ただ、考えていないわけじゃなかった。一階に下りれば患者の沢山居るロビーに出ることになてしまい、そうなっては、それこそ取り返しがつかなくなりそうだったからだ。
吉村加奈子の眼は完全に正気を失っていた。その時はまだ気付いてなかったのだけれど、後に分かったことは、ここでもまたヤツの一押しがあったのだという。……鈴音に任せず、僕が後にヤツをボコボコにした理由、分かって貰えただろうか?
ともあれ、その時の吉村加奈子は僕を殺すためならなんでもする気概だった。取り押さえようと集まってきた人間に対しても、容赦なくナイフを振り回し牽制する。僕の言葉の届く状況じゃなかったし、届いたとしても、何て声をかけていいのか分からなかった。
だから、屋上に追い詰められてしまった時も、僕にはなんの展望もなかった。その頃の僕はと言えば、まだ、「霊体物質化能力でモノを造る」ということが出来ることも分かっていなかったから、なおさら、どうしようもなかった。
「死んで、式見蛍」
淡々とそう口にする吉村加奈子は心底怖かった。ナイフを持って無感情に相手に死を要望する存在なんて、そりゃ怖いに決まっている。下手すると、後に出会った悪霊達より、ある意味では怖かったかもしれない。理解できない怖さがそこにあった。
彼女の攻撃は常に胴体を狙った突きだった。致命傷狙う気満々。一撃食らったら終わりの攻撃の連続。刺されても病院だから大丈夫かなと、そんな甘い考えも湧いたが、すぐに却下した。一撃で済まない気がしたからだ。吉村加奈子は、一撃当てても、多分、それに満足せず、滅多刺しにしてくるだろうことが容易に予想ついた。
心臓、肺、顔、腹部。ザクザクと、返り血を気にもせず、僕の眼から光が失われるのを、じっくりと見守るだろう。
冗談じゃないと思った。今まで苦痛がイヤで自殺を忌避してきたのに、まさかその最後が滅多刺しなんて、あんまりじゃないか。
僕は吉村加奈子の大振りな攻撃を必死でかわし続けた。
そうして……その瞬間は……事故は、起きた。
この病院の屋上は、普段開放されてないだけに、フェンス式ではなく、腰元あたりまで(一メートル強)の柵で囲まれた場所で。少し身を乗り出すだけで下が見えてしまうような場所なのだけれど。
吉村加奈子の攻撃は突進。
それをかわしたらどうなるかなんて、必死だった僕には気付ける余裕がなくて。
僕が彼女の攻撃をかわした瞬間……彼女は勢い余って柵から身をのりだし……そして、鮮やかに……腰を視点として、くるりと……反転、頭が下方に向かった。
いや、もう、あの時のことは今でもたまに悪夢で見るね。多分後からの後付での記憶編集のたまものなのだろうけど、スローモーションだ。冷や汗さえかけないぐらいに、心臓が止まるような、衝撃。
そんな映像を見た時、人はどうすると思う?
今まで自分を殺そうとしていたやつだろうがなんだろうが、思わず最悪の状況を阻止しようと反射してしまうわけだよ。
相手を支える筋力もないのに。
結果として……。
〈ガシャン!〉
一瞬の激しい音と、ぐるりとめまぐるしく変わる視点の後……気付いた時には、僕まで落ちそうになりながら……片手でフェンスを掴み、片手で吉村加奈子を支えるという、「嘘だろ」と思ってしまうような、現実感の無い、でも現実である状況の完成だった。
アニメやCMじゃ何分もこの状態で粘ったりしているが、冗談じゃなかった。人一人片手で引っ張りながら、もう片方の手でフェンスに捕まっているなんて……筋肉が一瞬で悲鳴を上げ、三秒で落としてもおかしくない状況。引っ張り上げるなんてできるもんか。
吉村はどうやら落ちそうになった瞬間にナイフを落としたのか、何もせずに、ダランとしていた。彼女が完全に体重を任せてしまっているのも、僕が辛い一因だった。
せめて彼女の方からちゃんと僕の手を握って欲しいと考え、「おい!」と声をかけるものの、結局反応せず。無表情な目で僕と下を見比べ、ぽつりと彼女は呟いた。
「……飛び降りって、一番楽な自殺方法らしいわよ。ねえ……一緒に、終わらない?」
「落ちてたまるかっ!」
僕は必死で反論しながら、助けが早く来てくれることを祈る。どうしてさっさと人が来ないのだろうとこの時は疑問に思ったが……後から判明した話では、ここでも、あの死神野郎が精神干渉してやがったらしい。……僕がボコボコにした理由、充分ご理解いただけただろうか?
僕が這い上がろうともがいていると、吉村加奈子はキョトンとした目で僕を見返した。
「どうして? 死にたいんじゃなかったの?」
「こんなんで満足なら、とっくに死んでる!」
「……満足……」
「お前だってそうじゃないのか! こんなチンケな方法で、終わりでいいなら、お前は苦労してないだろうが!」
「……いいのよ、もう。どうやら……終わりなんて、最初から、素晴らしいものじゃなかったみたいだもの」
婆さんのことを思ってか、吉村加奈子は達観した様子だった。終わりに……諦めを見出したらしい。自分の求める終わりが世の中に無いのならば、もう、自分も終わっていいと、そういうことだろう。
しかし僕は……それに、納得いかなかった。彼女と同じような欲求を持っている僕だからこそ……納得、いかなかった。
「僕は……死にたいけど、でも、その方法に関しては、妥協しないぞ。ここでこんな後味悪い死に方なんて、まっぴらごめんだ」
「そう。なら、私だけ放せばいいじゃない」
「馬鹿かお前は」
「?」
「それが後味悪いっていってんだよ。自分のせいで友達死なせるなんて、最悪の極みじゃないか」
「終わってしまえば、皆同じよ」
「だから、なんだ」
「?」
吉村加奈子が不思議そうに僕を見る中、僕は限界を感じながらも、彼女に返した。
「本当にそう思っているんだったら、どうして、婆さんの終わりを認められない? あれで満足出来ない?」
「それは……」
「そりゃ理不尽な『終わり』だってある。バッドエンドだってあるし、ハッピーエンドだって、普通の終わりだってある。終わってしまえば皆同じ。だったら……終わるまでが、全てなんじゃないのか? 終わりが全てじゃない。終わるまでが、全てだ」
「……終わるまでが……全て……」
「終わりの後ろには空白しかない。絵本だって、死だって、なんだって。終わりの後には何も続かないからこそ、終わりなんだ。でも……だったら、終わりの良し悪しって、どこで決まると思う?」
「…………今」
「大正解。最高の終わりが欲しいなら、最高の今を手に入れなきゃ駄目だ」
僕のその言葉に、吉村加奈子はしばらく黙りこくっていた。しかし……少しすると、自分から僕の手を握り返しながら、再び見上げていた。眼は、元の色に戻っていた。
「……死にたがりに言われたくない」
「そりゃごもっともで」
「……説得力ない」
「いやいや、僕は、だから、いつも後悔しないように生きているぞ? いつ死んでもいいように」
「じゃあ、ここで死んでも良かったじゃない」
「またそういうことを……」
「ふふふ……。分かってる。ここで死んだら、後悔するんでしょう、貴方。愛しの吉村加奈子が不憫で」
「……別に」
「……そうね……。終わりは……少なくとも命の終わりは……いつか絶対に来るものだものね……。焦ることはない……か」
彼女は一人で何か納得して微笑んでいた。微笑んでいるところ悪かったが、正直、僕はいいこと言ったのに限界で、結局二人とも死亡なんてオチになりそうだなと諦めていたりした。
が……そこで間一髪、鈴音がぞろぞろと救援を引きつれながらやってきたので……僕と吉村加奈子は助かった。ちなみに、この救援は、鈴音が精神干渉を破ることでかけつけた人々らしい。そのついでに鈴音がのこのこ屋上に見物に来ていた「病院の死神」を捕縛。……後にここで僕による悪霊リンチ事件が幕を開けるわけだが、そこらの描写は……黙秘させてもらいます。
二人とも屋上に引っ張り出された後の、吉村加奈子の言葉は、今でも僕の心に少しだけこびりついている。
「終わり良ければ全て良しと言うけれど。それは、少し違うのかもね。全て良ければ……終わりなんて、瑣末なことだったのかもしれない。過程が良ければ、結論なんて、見るまでもなかったのかもしれない」
その日、僕は始めて吉村加奈子が笑うところを見た。
――退院日――
タクシー代も出してくれないケチな春沢さんに見送られて病室を後にすると、ロビーで吉村加奈子が僕を待ち構えていた。怪我は治っているのだが、事件が事件だっただけに、さすがに精神療養を余儀なくされたらしく、彼女は大層不満顔だった。
ただ、なぜかあの日以降変えたパジャマの明るい色合いは、今の彼女に似合っている気がして、僕はマジマジと彼女を見てしまった。
「なによ。……いやらしい目」
「いや、なんていうか、お前の容姿を初めて女の子として評価してみる気になったというか」
「あらそう。ごめんなさい。私は貴方を男として見れる日が来る気がしないわ」
「…………」
「あ、こら、無視してそそくさと去るなっ!」
「……なに? 僕は自分の部屋が妹に掃除されまくっているだろうから、一刻も早く帰宅して現状を把握したいの」
「その……さ……」
「? なんだ? 第二ボタンでもほしいか? ごめん、このシャツお気に入りなんだ。たとえお気に入りじゃなくてもやらんがな。第二ボタンはやれんが、『第三の死神』という、実にライトノベルっぽい強そうな称号を吉村にやろう。喜べ。」
そう言って、頭をなでなでしてやる。彼女は当然のごとく憤慨した。
「いらないわよ! そ、そうじゃなくて……その……」
「?」
「……ま……」
「?」
「……またね」
彼女は顔をカァっと紅潮させながら、俯き加減でそんなことを言う。……春沢さんじゃないが、また病院に来いということだろうか。……素直に喜びづらい言葉である。
まあ……僕もそこまで野暮ではない。一つ嘆息すると、バッグから大量に抱えた文庫本の一つを取り出し、彼女にポイと放り投げた。慌ててそれを両手で受け取り、戸惑いの視線をみせる彼女に、僕は顔をぷいと背けながら声を掛ける。
「僕が居なくなって寂しくて寂しくて泣きそうだろうから、暇潰しにでも読めよ」
「な、誰が――」
「一冊でキッチリ完結しているからな、それ。しかもハッピーエンドだ」
「あ……」
彼女は一瞬俯いた。僕は……それに、極めて明るく声をかける。
「……死んでなかったら、またな」
僕の言葉に、彼女は作ったような笑顔で向き直る。
「ふふふ、じゃあ、再会確率は低そうだね」
「あの世で会うかもしれないぞ」
「あら残念でした。私は……長生きするもの」
「……そっか。じゃあな、よし……。……加奈子」
「うん……またね、蛍」
「……またな」
そうして、僕は歩き始めた。……いい出会いだったなと、ガラにもなく、そんなことを思ったりした。ロビーから出る時にふと振り返ると、彼女は大事そうに胸に文庫本を抱えてまだこちらを見ていたが、僕が振り返っていることに気付くと、「ふ、ふん!」と、文庫本を片手でぶんぶんと振りながら去っていってしまった。……最後までわけのわからないヤツだった。
「ん……」
病院から出ると、空はイヤになるぐらい快晴だった。
「はぁ……さくっと死にたい……」
とりあえず転落死はごめんだなと、苦笑する。あれは結構怖そうなことが判明した。ああ……僕の中でまた死の選択肢が減っていく……。
僕はずっしりと思いバッグを背負い直すと、陽の光の下へと歩き出した。
……なんとなくだけど。
「いい別れ」があった今日は、「いい出会い」もあるような気がして。
僕は、駅までの道を一歩一歩踏みしめながら歩き始めた。
太陽は今日も燦燦と変わららず僕らを照らしくれていて。
簡単に終わらないからこそ尊いものもあるのじゃゃないかと、ふと、そんなことを思った。
――マテリアルゴースト第一巻(P45)に続く――