「いやぁ!」
叫んでも何も変わりはしない。それをよく知りながら、しかし、私はそう叫んでいた。
慌てて式見蛍の傍へ行く。彼の腕の中から、犬が飛び出し、「くぅん」と彼の頭から流れる血を一度舐めた後、どこかに走っていってしまった。
「馬鹿……馬鹿!」
私は涙を流しながら、式見蛍を、その透明な手で何度も叩いた。意味なんて無い。意味なんて、なくていい。
必然だった。そうだ。私は知っていた。式見蛍がこういうヤツだって。例え彼自身が狙われなくても、動物が殺されそうなのを見れば、確実にかばう。そんなのは、彼を深く知っている者達にとて、あまりに簡単すぎるシミュレートだった。
悔しくてまた涙が出てくる。その涙は落ちることなく宙に消えて行く。
無力な自分が恨めしかった。大切なものを守ることが出来ないのが、大切なものが傷つくのが、こんなに痛いとは思わなかった。死んだ時なんかより、ずっと苦しい。ずっと辛い。自分の死なんかより、遥かに痛い。
式見蛍はもしかしたら、こういう痛みをしっていたのかもしれない。だから、世の中には死より辛いことがあるなんて普段から言って、死にたがっていたのかもしれない。
私は彼の胸に顔をうずめながら泣いた。結局はすけてしまう、空気のような自分の存在に、また苛立ちを感じた。
しかし……事態はまだ、収束していなかった。
<ブゥゥン>
「!?」
去っていったと思った武内護の車が……いつの間にか、Uターンして再びこちらを向いている。
遠目ながら……中の武内護の表情がイヤにくっきり見える。……笑っていた。私の死体を見つめるのと、同じ様子で。
そして、気付く。
「……嘘、でしょ……」
嘘と言ってほしかった。でも、現実はやっぱり酷く残酷で。
<キュルルル……>
タイヤが回転を始める。
間違いなかった。
武内護は……。
「やめ……てよ」
式見蛍を完全に殺すつもりだった。
「やめて……やめてってば! もう充分でしょ!」
式見蛍に寄り添いながら叫ぶ。しかし、車はゆっくりと着実にこちらに迫ってきている。速度を上げないあたり……どうやら、彼を踏み潰すまでのその過程に陶酔しているようだ。しかし、最後の瞬間には一気にくるだろう。
私は慌てて式見蛍に向き直った。
「ねえ、起きて! 起きてよ! このままじゃ……このままじゃ!」
私がいくら声をかけても、しかし式見蛍は起きる気配が無い。そもそも、私に体があったところで、この状態では起きられなかったかもしれない。
エンジン音を聞きながら……絶望感にうちひしがれる。私はボロボロと涙を流してしまっていた。
「どうして……どうして、私はこんなに無力なの……」
式見蛍の綺麗な頬に手をやる。
「どうして……どうして、私は、貴方に触れないの……貴方に、言葉をかけることも出来ないの……」
嗚咽が漏れる。
「いやだ……いやだよ……」
そして……遂に……否定、する。
「空気は……いやだよ……寂しいよ……。初めから最後まで空気だったら良かった……。でも……でも、私はもう、戻れないよ……蛍」
彼を名前で呼ぶ。それは、私が一線を取り払った決意。
「蛍……蛍……。私、貴方を助けたい……。空気じゃイヤ……。貴方に見てもらいたい……貴方に触れてもらいたい……。空気は……イヤなの……」
武内護の駆る車体がどんどん近付いてくる。もう少し近付いたら……一気に加速するはずである。彼は、そういうヤツだ。
「蛍……お願いよ……神様……神様! 貴方は武内護の味方なのかもしれない! でも……でも、お願い! 一度で……ううん、今だけでいい。今だけでいいから……奇跡を……私はどうなってもいいから――」
そうして、私は、蛍の体の前に屈み込む。彼を柔らかく抱きかかえるように。そして――
「彼に、触れさせて!」
瞬間。
「っ!」
ぶわぁっと、風が起こる感覚。そして――
武内護がアクセルを踏み込む!
理解するより先に、彼を抱き抱える。そして、思い切り、道路脇へ飛ぶ! 自分にはツバサが生えたのではなかいと思った。軽やかに、今までで一番の動きで、私は飛んだ。
「なっ!」
武内護の驚く声が聴こえた気がした。彼にとっては、蛍が急に宙に浮いたように見えたのだろう。
動揺は加速と重なり、彼の車は制御を失う。そうして――
<ガシャン!>
電柱に激しく衝突して、止まった。武内護は運転席で意識を失っているようだったが、どうやら生きてはいるようだ。……良かったのか悪かったのかよく分からない。
私は腕に抱えている式見蛍を見た。そして、今更ながらに認識する。
「私……触って……る?」
自分の腕の中に感じる、確かな式見蛍の体温。
「…………。……っ」
なんだか急に恥ずかしくなってきて、私は慌てて彼を地面に下ろした。
べ、別に、ただ腕が触れていただけなのだけれど、こう、今まで触れたくても触れられなかったものということがあって……異常に、照れた。
私は寝かせた蛍を見つめ……そうして、そっと、頬に触れてみる。……温かかった。
「って、余韻に浸っている場合でもないか」
慌てて雑念を振り払う。どうにか救急車を呼びたいが……。
「きゃあ! これは一体……」
そうこうしていると、どこからか少し太めのおばちゃんがやってきた。見れば、彼女の足元にはさっきの犬が居る。おばちゃんは犬と現場を見比べた後、何かを悟ったようだ。慌てて携帯電話を取り出し、救急車を呼んでいた。勝手に「犬を助けようとしたみたいなんです、ええ!」と自分の憶測でものを喋っていた。……少々呆れたが、これまた事実なんだから微妙だ。
これで……安心、かな。
「っ」
そう思った瞬間だった。自分の体に変化が起こったのがわかった。そして、それの意味はダイレクトに自分に伝わった。
「……そっか……。私、成仏するんだ……」
まだ予兆でしかなかったけど。それは、自分で分かった。自分だからこそ、分かった。
確かに、今、私の中は満足感に満たされていた。それこそ、多分、空気として生きているだけでは得られなかったであろう、満足感。
「まだ少し時間……あるよね」
改めて蛍の顔を見る。どうやら、どういうわけか彼の傍では私は実体化できるようになっているらしい。奇跡を起こせと願ったのは私だけど……別にこういうカタチと限定したわけではかったと思うんだけどな……。結局、多分これも「必然」の類なのだろう。私がどうこうじゃなくて……多分だけど、式見蛍には元々こんな力があったのかもしれない。それが、瀕死になったのを機に、顕現した。だけど……
「顕現した要因に少しでも『私の想い』を含むのは……やっぱり自惚れかな、蛍」
そう言って笑いながら、彼の髪をかきあげる。こんなにも……他人に触れて幸せを感じたことはなかった。
「まいったな……恋は盲目って本当だ……。馬鹿にしてたけど、女の子が夢中になるわけだよね……」
死んでから初恋するというのもまた私らしい……いえ、「私達」らしいわね、ともう一度蛍に笑いかける。
「あれ? おかしいな……嬉しいのに、何まだ泣いているんだ、私」
実体化した状態の私の涙はちゃんと冷たくて、ちゃんと頬を伝った。
「あは……は。可笑しいね。奇跡を起こしたのにね。……あ、愛の力、なんちゃって」
「…………」
「ふぅ……。結局、キミとは話せないんだね……」
それが、やっぱり残念だった。恐らく、彼が起きる頃、私はもう文字通り「この世に居ない」。
「……ったく、辛いなぁ。片思いが辛いっていうのも、よぉく分かっちゃいましたよ……。神無鈴音、大変だろうなぁ」
くすくすと笑う。……笑っていなければ、やっていられなかった。
辛いなら、成仏しなければいいと思うけど……でも、それは違うとも思った。それは無理だと思った。だって、私はもう充分に幸せだったから。未練はあっても、満足は満足だったから。これ以上の幸せを望むのは、死者のすることじゃない。
「触れただけで大満足なんだよ、私は。……まあ、あの男を捕まえられないのはちょっと癪だけど……」
そう言って、武内護の方を見る。――と、そこには驚くべき光景があった。
「え……うぁ」
意識を失っている武内護の傍に……キメラが浮いている。キメラだ。ただ……酷く造形は醜悪だけど。
動物の顔が何百も組み合わさって、一体の獣をかたどっている。そんな存在。あれが……世に聞く「悪霊」というものだろうか。あまりにも悪意に満ち溢れてるその存在に、私は硬直した。
しかし……そいつは、私を見ては居なかった。武内護を凝視していた。そして……
「あっ!」
しゅっと、武内護の中に入っていってしまった。
「う、わぁ……」
瞬間、蛍が助けた犬が「わん!」と吼える。
「お前、意外と容赦ないね。あんなのまで呼んできたのかい?」
私が声をかけると、知ってか知らずか、もういちど「わん!」と返す犬。……まあ、自業自得か。あれはおそらく、武内護が殺した動物達の霊の塊だろう。ホント……「自業自得」という言葉がここまでぴったりなケースも珍しい。
彼は結局捕まらないかもしれないが、とりあえず、今後捕まる以上の最悪な人生を歩むことは間違いないと思われた。まあ……いいか。
「…………」
救急車の音が聴こえてくるとともに、私の体がキラキラと輝き始めた。そうだね……救急車が到着したら、「私の役割」はもう終わりだよね……神様。
私は蛍の髪をもう一度撫でた。……まったく、ホントに女たらしだったんだね、キミは。駄目だよ、そういうの。周囲の人は不安になっちゃうよ。いつか恋人できたら、ちゃんと、その人だけ「特別扱い」してあげるんだよ。
「ああ……もう、心配だなぁ」
なんとなくだけど、彼にとっては今回みたいな事件、日常茶飯事になると思った。わ、私のせいじゃないけど、変な力まで身についちゃったみたいだし。
徐々に消えて行く体で、彼に声をっかける。
「私は、もう守ってあげられないし、傍にも居てあげられないけどさ……。貴方には、ちゃんと、いい人、現れるから。それは神無鈴音かもしれないし、真儀瑠紗鳥かもしれない。それか、これから出会う誰かかもしれない。いえ、もしかしたら私と同じ幽霊かもしれないね。そうだとちょっと嬉しいかな」
蛍。私の人生を、今になって輝かせてくれた、罪な人。
「だからね……ちゃんと、生きなきゃ駄目だよ」
涙が落ちる。ぽろぽろと、涙が、零れ落ちる。
「まあ、信じているけどさ。死にたい死にたいって言っても、最終的には、人を傷つけない選択をちゃんと出来る人だって。そう、信じるけどさ」
既にもうかなりの部分が光に変換されていて。実体化していても、蛍に触るのが難しい。
それでも、私は蛍の顔に自分の顔を近づける。
救急車はもうすぐ傍まで来ているようだ。
「たまには……たまにはさ。その……私のこと、思い出してくれたら、嬉しいな、なんて。……は、はは、何言っているんだろうね、私。蛍は……私のこと、知らないはずなのにね。最初から最後まで、知らない存在のはずなのにね……ごめんね。ごめん……ねぇ、わが……まま……で」
涙がとめどなく溢れる。
それでも、私は、無理して、微笑む。だって、私は、幸せなんだから。幸せをくれた彼に暗い顔でお別れなんて、しちゃ駄目だ。
でも……
だから……
「さようなら、蛍。大好きでした」
彼の唇に私の唇が触れる……その瞬間に、私は、その人生に本当に幕を閉じた。
最後の瞬間に、彼の瞑られた瞳から涙が流れていたのを自分のためだと思うのは、自惚れかもしれないけど。
私は、それだけで、もう、大満足です。
満足、です。
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