世の中には理不尽な事っていうのが、ちょくちょくある。
俺の場合で言えば病気もそうだったし、直接の死因もそうだ。だから俺は因果応報っていう言葉を信じない。いいことをしたら、いいことが返ってきて。悪いことをしたら、悪いことがおきる。この世の中は、そんな素晴らしいシステムでは出来ていないはずだ。
最初からそう思っているから、俺は、理不尽なことがあっても、ある程度は許容してきた。目くじらをたてても、仕方ないと諦めていた。……今までは。
しかし……そんな俺でも、こればっかりは、まいった。
「きゃはははははは!」
まず。
藍璃が銀行内に入った瞬間、客らしき女性が笑いながら店長らしき男の腕を切断した。それだけでも十分衝撃に値する出来事なのだが、次の瞬間には、今度は自分の首に爪を突き立てて掻っ切る。
で、それで終わりかと思えば、今度は銀行のシャッターが閉じてしまった。どうやら受付の女性がそれを行ったようだが、見れば、その女性がさっきの狂った女と同じ目をしている。……ことここに至って、ようやく俺は、「あ、異常現象だ」と悟った。
密閉空間。正体不明の存在。一瞬で犠牲者二人。片方死亡、片方腕から多量出血。
警察が来るまであと何分?
警察が来るまで目の前で呆然としている我が恋人が無事でいられる確率は?
警察が来たとして、あの異常存在をどうにか出来る可能性は?
……絶望的だった。
あまりの理不尽に、頭がくらりとする。俺のことならまだしも……藍璃が……この、俺が、「この市でダントツ1位の善人」と信じる右坂藍璃が、こんな悪夢のような事件に巻き込まれたことに、異常に腹が立った。
「きゃははははははははは!」
その場に居合わせた者達……職員と客を含めて30人程の人間達が、一人とて、悲鳴さええげられずにいた。絶対的な静寂の中で、狂ったような笑い声だけが響く。そうして、受付の女性は自らの首に爪を突き立てた。
あまりに異常な行動だというのに、なぜだか俺達は、それがまるで自然な行動のように思えて、その光景をただただ見守る。
女性の首から血が噴き出す。
だが。
それで終わりだなんて、もう、この場に居合わせた全員が、思っていなかった。
「きゃははははははははは!」
先程と全く同じテンションの声。見れば、隣の受付の女性が笑っていた。
ようやく、人々は叫び、驚愕し、どよめき始める。
「きゃあああ!?」
女性の叫び声。ドタドタと受付から一斉に離れる足音達。しかし銀行から出られない現状。どうやら職員側の出入り口までロックされてしまうシステムらしく、そちらに駆け寄った職員がガンガンとドアを蹴っていた。
幽霊やらなんやらということを知らないはずなのに、人々は、既に悟っているようだ。そして、疑問を抱く以前に、その生存本能に従い、全力で逃げようとしている。
あの、「理解不能の存在」から。
「藍璃!」
ようやく俺も声を絞り出すも、当然、藍璃には声は届かない。受付の女性がまた首に爪を立てているのを横目に、藍璃の様子を窺う。
彼女はただただ、呆然としていた。
「なに……これ」
「藍璃! とにかく離れろ! なんだか分からんが、とにかく離れろ!」
見れば、当然ながら周囲の人々は一斉に受付から離れ壁際に退避してしまっている。危険なものからは、とりあえず離れろ。極めて正当な反応だ。
しかし、藍璃は目の前であの光景を見てしまったせいか、呆然として、離れなかった。
「…………」
「っ!?」
言わんこっちゃない。気付けば、受付内で自分の首を切ろうとしていた女性が、爪を止めてこちらを……いや、藍璃をジッと見つめていた。
その口が……ニタァと、気味の悪い笑みに変わる。
(移られる!?)
咄嗟にそう思った。相手がどういうものかもまだ分かってないはずなのに、俺は、既にそう理解していた。
伊達にたくさんの悪霊を取り込んではない。力を試す機会はなかったが、その代わり、幽霊に関する直感のようなものは、昔とは比較にならないほど研ぎ澄まされている。
「ちっ!」
受付の女性が藍璃を見定めたまま、首を切る。……来る! このタイミングで……次は……。
どうしたら防げるか。
そんなの……俺に出来ることなんか、一つしかない。
受付の女性から何か黒い影が飛翔するのが見えた。
当然俺は……
「許せ、藍璃!」
藍璃の体に、
先に憑依する!
背中から、藍璃の体に重なるように移動し、精神を彼女に同調させ、そして、奪う。身体の感覚を、奪う。
直感。
あの何かを防ぐ方法。
そんなもの。
先に、
蓋をするしかない。
よく理論は分からんが、少なくとも、俺ぐらいの大きな悪霊が入っていれば、もう、アイツの入り込める容量はないだろう。
藍璃の体を一瞬で掌握する。藍璃の精神の存在を感じたが、それを、体の奥底へ閉じ込め、シャットアウト。
(見ない方がいい)
そう判断した。こんな事件、体験しない方がいい。
驚くほどスムーズに藍璃の全てを掌握した自分に驚く。
(はは……いよいよ俺も、悪霊じみてきたな)
完全憑依とかってのは、強力な悪霊の専売特許じゃかったっけか。それを……今の俺は、呼吸をするように出来るんだな……。……まあいい。
そんなことより今は……。
『!?』
黒い何かが、藍璃の前で、まるで障壁に弾かれるように後退した。俺の存在が憑依を邪魔したのだろう。
高速移動が止まり、ハッキリ姿を見せたその存在。霊感ある者以外には見えないだろうが……。
それは、真っ黒な少女だった。髪をだらりと垂らし、頭から血を流して、こちらを暗い目で見つめる、黒い少女だった。
(やっぱり……悪霊か)
完全憑依&自殺型の悪霊。……ん、そういえば、なんかこの間これに似た噂を鞠亜に聞いたな。確か、親戚が最近そんな事件に巻き込まれたとかなんとか……。なんつったっけ……『中に』……。まあいいや。なんか真っ黒な悪霊が暴れた事件だったはずだ。
目の前で、黒い少女がこちらを憎々しげに見つめている。俺は藍璃の体で構えをとったが、やはり、自分の下の体とは全く身体能力が違うようだ。まるで動き辛い。藍璃……そういや、運動神経悪かったな。
(…………)
膠着状態。相手も、こちらが何者か分からず様子を窺っているのだろう。
(コイツ……なんだ? 自我みたいなものが……殆どない? 本能だけ?)
『…………』
相手の目を見ていると、そんなことを思った。……悪霊にしても……本格的に、災害の塊のようなタイプか。「そういうモノ」。正義とか悪とかじゃなく、性質からして、そもそも、「そういうもの」。
(こりゃ……例の親戚の事件とやらの不始末かもな。あっちから、派生した何かか? 分裂体? 取りこぼし? 派生物? 噂の具現? まあなんでもいい。とにかく……)
成仏させるか何かしなきゃいけない。しかし……どうしたものか。
――と、
「っ!」
唐突に少女は、再び飛翔し、元の体へと戻った。そうして――
「な――」
受付内にあったらしいカッターナイフを、思いっきり投げつけてきやがった!
慌てて、ギリギリでそれをかわす。藍璃の髪がハラリと、宙に舞う。……かすった。
「危ないだろてめぇ! この体が傷ついたらどうすんだこら!」
思わず大またを開いてガーガーと叫ぶ。途端、他の一般人からキョトンとした視線で見られた。……うっ。そうだ。俺、今、藍璃なんだ。藍璃みたいな大人しそうな女の子が急にこんな口調だったら……そりゃ、引くか。
受付の女性は、しかし、次々と高速で物を投げつけてくる。ハサミ、ペン、定規、キーボード、マウス、腕。
「店長の腕怖ぇーーーーーーーーーー!」
腕だけ喰らってしまった。ダメージ殆どなかったけど。精神的に酷いことになった。
受付女性は周囲に投げるものがなくなったのか、キョロキョロと視線を彷徨わせると……。
自分の首に爪を突き立てた。
「!?」
(くそっ、また移動を――)
女性は首をニタニタと嗤いながら掻っ切る。
このままじゃ、犠牲者はどんどん……。
…………。
「あー、もう、くそ、俺は正義の味方じゃねー! 悪霊だっての!」
そんなことを言いながら。
一番とりたくない手段をとることにする。
つまり……。
「っ!」
受付女性から、今度は、他の一般客女性に移ろうと飛翔した黒い少女に向かって――
俺も、藍璃の体から飛び出て、飛翔した。
『!?』
「俺に……飲まれろやこらぁ!」
黒い少女と。
完全に、ぶつかり、融和し、一体化する。
ぐにょんと、視界が……いや、心が、在り方が、歪んだ。
「――――」
あ。
やべ。
俺。
まだこんな狂気……飲める器じゃ……ね――
殺す愉しい血綺麗首首首切断女柔らかいケケケケケケケ笑笑笑笑刺斬滅惨真紅真紅赤赤赤飛女女女女回転回転くるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくる――
…………。
…………。
……うるさい。
……黙れ。
……黙れ。
黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ。
俺の中で暴れるんじゃねぇ。
俺を誰だと思っていやがる。
俺は……。
俺は……。
「最強の悪霊御倉了様だっつってんだよ、この三下がぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
…………。
……ふぅ。
あ、危なかった。
俺、今、完全にアレになってなかった? 俺の一人称、かなりヤバイ状態になってなかった?
ってういか誰に確認してんの、俺。まだ混乱中?
いやぁ焦った焦った。チョー焦った。
殺人最高! とか思ってた。一瞬。
「っ、けほ、けほ」
咽ながらも、どうにか、自分の体を、存在を、確立させる。
ようやく、俺の中で、少女が、消えた。
消えたというより……消化された。
終了。
「ふぅ」
一息ついて、周囲の様子を確認するも……やっぱり、俺達が見えていた人間いないようだ。全員、まだ警戒を緩めていなかった。
……まあいいか。元凶は飲んだんだ。少なくとももう被害は広がるこたぁない。
今回の事件は結局……変わった集団自殺事件として、また世間に埋もれていくだけだろう。世の中、そういう風に出来ている。自分達に分かる論理内で、人間は決着をはかる。
「……っと、忘れてた」
とりあえず、藍璃の方に戻る。精神を押し込めたままで出てきたから、藍璃は現在、気絶状態にあった。床に、ぺたんと寝てしまっている。
仕方ないので、もう一回中に入る。
「あの、キミ、大丈夫――」
「はい、完璧です」
「ひっ!?」
藍璃に声をかけようとしていたサラリーマンらしき男性に、むくりと起き上がって満面の笑顔で答える。なぜか彼はひきつっていた。……まあいいや。
とりあえず、藍璃の体をとことこと移動させて、備え付けのソファーへ。そこで、くたりと横になり、離脱。
「ふぅ……ま、そのうち起きるだろう」
精神を解放はしてきたが、すぐに体と同調はしない。五分ほど睡眠状態を経て、その後、起きるだろう。
藍璃の寝顔を眺める。……事件の記憶は残るだろうか。夢だと思ってくれるとありがたいんだが……。
「……また……こいつを、傷つけたかも、な」
それは俺の責任じゃあないのだけれど。それでも……。どうして彼女は、いつもこんな理不尽な状況に追い込まれるのだろう。いつだってそうだ。昔からそうだった。
……好きになった男は、病気持ちで、長生き出来ないどころか、最後には刺されて死亡。
それだけでも、十分理不尽だってのに……。
「……すぅ」
すやすやと眠る藍璃の額に手をかざす。触ってもあげられないこの体が……やはり、もどかしかった。
「……さて。鞠亜に報告した方がいいよな……これ」
名残おしかったが、藍璃から離れることにする。
振り返り、さて、シャッターをすり抜けて出ようと――
「……リョウ……マリア……」
「!?」
慌てて振り返る。藍璃が、寝言を呟いていた。
「今……マリアって……」
俺の聞き間違いか? ……そうだよな。彼女に再び近付きながらも、そう、結論づけ――
「早くリョウ……帰って……」
「!?」
なにを……言ってるんだ、藍璃は。
〈ドクン、ドクン、ドクン〉
あるはずもない心臓がバクバクと鳴り始める。
体が……俺の無意識が、俺に警告しているようだ。
《それ以上今は知ってはいけない》
(なに……を)
《まだ、お前は、その段階にいない》
(何を……言って……)
《それ以上、今は、知るべきではない》
(…………)
紛れもない《自分からの警告》に、頭がくらくらとする。
しかし……俺は……。
「……鞠亜に……事件を報告しないと」
素直に、その警告に従った。理不尽だと思っているはずなのに。知りたいと願っているはずなのに。
今はそうすべきだと、なんの根拠もなく、確信していた。
藍璃に背を向ける。
「マリア……早く……」
「…………」
確実にマリアと言ったのが聴こえた。
しかし。
俺は。
「さて、今日の夕食はどうしようかな」
聴こえないフリをして、その場を去った。
……分かっていたのかもしれない。
俺はこの時既に、ある程度、真実とやらを推し量れていたのかもしれない。
だけど。
確実なのは。
今はまだ、それを、知るべきではないということで。
俺は――
全ての真実から、逃げた。
――御倉了が最強の悪霊になるまで……あと、九体――
――否――
――『マテリアルゴースト事件』まで、あと、○○日――
――真相に至るまで、あと、○○日――
――《彼女》と対峙するまで、あと、○○日――
――リョウという存在の意味を知る日まで、あと――