「あ、りょー君っ! キリンさんだよ、キリンさん!」
「はいはい……」
きゃっきゃとハイテンションではしゃぐ藍璃を追って、たらたらと動物園内を歩く。
藍璃はキリンのいる敷地前の柵にぺったりと張りつき、園内のどこの子供よりも目をキラキラと輝かせていた。
「…………」
……この際、周囲の家族連れが若干藍璃に引き気味なのは、気にしないでおこう。うん。
あんな精神年齢だけど、学校の成績は凄かったんだぞ、藍璃。世の中よく分かんないよね。
「りょー君! 早くおいでよ! キリンさん逃げちゃうよ!」
「ほ、放っておいてっ……」
家族連れの視線が藍璃の保護者たる俺に向けられ、あまりの辱めに両手で顔を覆う。ああ……こんなことなら、俺は霊能力ある人間に以外見えない体で良かったのにっ!
「りょーくぅーん!」
「ひぃぃ……」
いつまでも大声で呼ばれてもイヤなので、とぼとぼと藍璃に近付く。藍璃にぐっと手を引かれ、一緒にキリン鑑賞させられる。腕をぐっと組まれ、体をぴとーっと思いっきりくっつけられた状態で無邪気にはしゃがれるものだから、俺はもう……。
「あぁ……バカップルだ……。ああはなるまいと昔散々思っていたはずの、バカップルだ……」
潤む視界でキリンの親子を見ていた。
*
マテリアルゴーストとして俺が再生してから既に二年。俺は呆れるぐらいの平和の中に居た。
まるで、生死の境に居たことが嘘のようだ。悪霊を沢山取り込んだ日々なんて、まるで小説の中の出来事のように、今では薄ボンヤリとしか思い描けない。
鞠亜や幽子、リエラとの親交は未だに続いている。あの生活の終わり間際、鞠亜が言っていた謎めいた言葉に関しては……あれ以降、全く触れずに。
別に俺はそれで良かった。それこそ実体化して一ヶ月ぐらいは、まだ不安になることもあったのだが……日常というヤツは偉大だ。藍璃と幸福な生活を送っていると、そんな小説じみた伏線なんてどうでもよくなってくる。
今が幸せならそれでいい。そう思うことの、何がいけないのだろう。
藍璃の、相変わらずの突き抜けるような笑顔を見ていると、どんなことも瑣末に思えてしまうのだ。
結局、俺は今や完全に日常の中に舞い戻っていた。
少しの変化と言えば。
鞠亜、幽子、リエラなんていう普通とは言えない友人ができたことと。
リエラがたまに襲ってくることと。
霊体を取り込んでいたせいか、今の俺はかなり超人的で、リエラとも対等に渡り合えたこととか。
リエラがそれをいたく気に入り、余計にしょっちゅう襲ってくるようになったこと(最早暇潰し&運動&遊び感覚だ)。
そうそう、俺が死んでいた期間、鞠亜が手を回したのか、俺は「死亡扱い」になっていなかった。これには俺もびっくりした。
家に帰ると、母親は俺をこう出迎えたのだ。
「あ、もう出家は終わったのかい? 病気、完治して良かったねぇ。ホントに」
……しばらくぽかんとしてしまった。
なんか俺、病気を完治させるために、有名な霊能力者の家に泊まりこんでいた……ということになっているらしい。それならば、確かに、俺が見た藍璃の元気な様子も納得がいく。そもそも、俺は死んだことにさえなっていなかったのだ。
その上、マテリアルゴーストになったことで、病気完治どころか、永遠の命、そして超身体能力の体まで手に入れたのだ。
結果だけ見れば、なんてことはない。
超超超ハッピーエンドと言って差し支えない状況だった。
…………。
……納得いかないことが、ないわけじゃない。
色々な疑問が、ないわけじゃない。
だけど。
《知るな》
俺の本能が、そう告げる。この日常を長く続けたいのなら……そんな好奇心に負けては駄目だと。
だから俺は、この二年、藍璃と交際しつつ神無家メンバーとも時折遊ぶという、ゆるーい日々を送っていた。
ちなみに、この身体能力を使って神無家関連の仕事も分けて貰って、金もちゃんと稼いでいる。
「護衛者 リエラ&リョウ」と言えば、この業界じゃもう結構有名なものだ。霊能力者を物理面でサポートしたり、霊が人の体を使って暴れた際に動く、究極の助手。しかもこの二人、たまにしか働かないこともあり、なんか勝手にレア度みたいなのが高まっているようでもあった。
……結局。
「リョウ君! 次はお猿さん見に行こう、お猿さん!」
「ああ」
俺は今、一般人並には幸せということだ。
*
「じゃあ、リョウ君 、ちょっと待っててね」
「ああ、行ってらっしゃい」
俺はベンチに座り、ぷらぷらと手を振る。藍璃は、どこにそんな元気が蓄積しているのか、にぱぁっと笑って小走りでアイス屋に走って行った。
本来なら、ここは俺がアイスを買ってきてやる場面だったのだが、藍璃がどうしても自分の目で見てチョイスしたいと言うので、俺が残ることになった。俺もついて行っても良かったのだけど、休日のせいか動物園には人が多く、このベンチも丁度いいタイミングで人が退いて取れただけの場所のため、片方が場所をキープしておく必要があった。
そのため……。
「ふぅ……」
俺はようやく、この動物園で心休まる一時を手に入れたというわけだ。
ボンヤリと、目の前の象達を見守る。
「いや……別に藍璃といるのがイヤなわけじゃないんだけどね?」
誰にともなく言い訳してみる。……ほら、いくら愛している相手とはいえ、一人になりたい時もあるじゃない。…………藍璃なら、「ないよ?」って簡単に言っちゃいそうだけど。彼女は彼女。俺は俺。……そこ、愛が薄いとか言うなっ! 愛してるよ! めっちゃ愛してるっつうの!
まあ、他の美人にも見惚れるけどさっ!
「…………」
というわけで俺は現在、象から、隣のベンチに一人で座っている美人に焦点を変えていた。
……男なんだから、仕方ないじゃん。こういうのは、不可抗力。
実際、その人は男のみならず、老若男女問わずチラリと見てしまうような女性だった。
妙な美人だった。
艶やかな長い黒髪。丹精な顔立ち。
耳にはヘッドフォン。目にはサングラス。ピッタリとしたデニムを履きこなし、上半身はシンプルながら清潔感のある水色のシャツ。……ブランド物だろうか? コーディネイトやカラーは単純なのに、妙に決まっていた。
当人のオーラのせいだろうか。
(……芸能人?)
なんとなくそんな感じだったので、俺は、余計に彼女をマジマジと眺めてしまったのだ。決して、「藍璃みたいな子ばかり見ていると、たまには大人っぽいのにも憧れる~」とか、そういう不純な動機じゃないのだ!
しかし、やっぱり、どう見ても動物園には不似合いな女性だった。原宿、表参道辺りを歩いているならまだしも、家族連れ溢れる和気藹々とした動物園にいるべき存在じゃあ、ない。しかも一人。彼氏でも傍にいれば、まだその違和感も薄らいだだろうに……。彼女は完全に一人だった。一人で、シャカシャカ音楽を聴いているようだった。
(動物園に来て、サングラスかけ、音楽聴いて……何がしたいんだ、アイツは)
嘆息する。なんか……たまにいるよね、ああいうの。
そんなわけで、美人だとは認めるものの、俺の好みじゃあねーなと、再び象を見やる。
――と、
「パォ……。……パォォォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオン!!」
「な……なぁ!?」
唐突に、象が……さっきまで平和の象徴みたいにのっそりのっそり歩いていた象が、天に向かって高らかに雄叫びをあげていた!
突然の事態に、周囲の喧騒が一気に静まり返る。
そして……次の瞬間。
《ドドドドドドドド!》
「ばっ――」
慌ててベンチから立ち上がる。周囲の静寂は一瞬、園内は、再び喧騒に包まれた。……悲鳴という名の、喧騒に。
《ドドドドドドド!》
象が。
《ドドドドドドド!》
柵を乗り越える勢いで。
《ドドドドドドド!》
思いっきり。
《ドドド……ガシャァアアアアアアアアアン!》
こちらに飛び出てきていた。
「――――」
思考。一秒。結論。
「やべ、止めないと!」
とにかく、そう考えた。しかし……飛び出た象は二体。
逆方向に。最悪。
俺の身体能力を持ってすれば、止められない相手じゃない。たぶん。
だけど。
俺に体は、二つない。
どっちを優先――
「ひゃあ!?」
「!?」
耳慣れた声。
自分の……彼女の、声。
「藍璃!?」
慌ててそちらに視線やる。そこには……藍璃が……アイスを両手に持った状態で、呆然と――
象の進路上にいた。
瞬間、優先順位が確定。
「うおおおおおおおおおお!」
アスファルトを思いっきり蹴る! メリッとシューズがアスファルトにめり込む感覚。
次の瞬間、俺は、一つの弾丸となっていた。体に圧倒的な加速によるGがかかるが……そんなものでどうこうなる体では、既に無い。
考えは無い。
とりあえず。
最速の手段として。
「俺の彼女に手ぇ出そうとしてんじゃねーーーーーーーーー!」
「ォォォォォオオオオン!」
叫び狂う象のどてっぱらに、横から、そのまま――
ぶつかる。
途端、象の体が、グラリと、揺らいだ。
「ってぇ」
思いっきり肩からぶつかり、軽く脳震盪らしきものを起こしかけるも、なんとかうまく着地し、状況を確認する。
象が……藍璃の目の前で、ズシンと、倒れた。
「ほぇ? ……りょー君?」
「よぉ、藍璃」
「……あ」
「お?」
「象いじめちゃ駄目だよ、りょー君!」
めっちゃ怒られた。……分かりやすい反応だ。でも。
「ごめん。もう一体、いじめてくる」
「ええー!」
藍璃にそう告げると共に。
「うわぁ!?」
20歳くらいの青年に迫っていた象に向かって、もう一度――
「どん」
ロケットスタート。弾丸、俺。
「パォ!」
直後には、二体目撃沈。俺の肩も、撃沈。……痛ぇ。痛ぇよぉ。脳も完全にぐらぐらしているし。こりゃもうしばらく動けねーな……。
ふぅと、一息つく。その場にぺたりとへたり込み、元々象が居た場所を眺めるように――
《ベキ》
「え?」
瞬間。
不自然なモノを見た。
《ベキベキベキベキ》
「え……な……」
柵が。
何もいないのに。
柵が。
ひとりでに。
捻じ曲げられている。
何かに踏まれるように。
ひしゃげていく。
「なに……を」
意味が分からないが、とにかく……ヤバイ。何か、ヤバイ。本能が訴えかける。「まだ、何も解決していない」と。
そもそも、なんで象がこんな風に暴れる。
二体同時に。
図ったように。
計ったように。
……謀ったように。
「――しまっ!}
気付くのが遅かった。そんな……そんな「異常現象を起こせる存在」「能力」、俺は、知っていたはずじゃないか!
霊能力、悪霊、マテリアルゴースト!
なんで。
なんで油断したっ!
「うぇぇぇぇぇえええん!」
「!」
信じられないものを見る。さっきまでいなかったはずなのに……いなかった、はずなのに。
俺の元居た位置のすぐ近くに、子供が。
小さな女の子が。
泣きながら、立ちすくんでいた。
《メキメキ》
ひしゃげる柵を見る。……見えない。何も、見えない。まだ、見えない。
だけど。
あれが向かっている方向は分かる。柵のひしゃげ方から――
「く――」
子供が……潰れる。
そんなイメージが脳内に鮮烈に焼き付けられる。
間に合わない。ただでさえ。
間に合わない。脳がぐらついているから。
間に合わない。調子に乗って、二体連続で倒したりしたから。
間に合わない。考えもせずに、体当たりだけをかましたから。
間に合わない。俺が……
平和ボケしていたから。
「油断するからだ、御倉了。マテリアルゴーストが精神干渉を受けてどうする、全く。減点1、貸し1」
「――え?」
不自然な言葉を聞いた。
気付くと……目の前に、俺を見下すように、女が……ヘッドフォンとサングラスの女が立っていた。
彼女は、何かを見ながら……俺には見えていない何かを見つめながら、告げる。
「視覚と聴覚をシャットアウトするだけでも、結構防げるもんね……っと!」
そう言うと。
彼女は、ヘッドフォントサングラスを取り払い。
その、ハッとする程の美貌を晒し。
そして。
タンッと。
鮮やかに、そして、華麗に。
跳躍した。
「な――」
彼女は……オレなんかよりずっと疾い速度で……しかし、ガムシャラではない、無駄な動きの一切無い跳躍で……見えない何かに、向かっていく。
そうして。
「せいっ!」
その、彼女のような美人が履くには不似合いな運動用シューズで。
「何か」を、蹴った。
瞬間。
「何か」が視覚可する。
「な――」
それは……一つ目の、巨人、だった。頭に角のある……巨大な、鬼のような存在。
それが……。
正確に、弱点らしき目を軽く蹴られ……。
たったそれだけのことで……。
次の瞬間には、ジュワッと、消滅していた。
「――――」
俺は声も出せない。
ただただ、見守ることしかできない。
女性は上空から、ストンと地面に降り立つと、まず真っ先に……子供の傍に駆け寄った。
そうして……子供に向かい、しゃがみこんで、にっこりと微笑む。
それは、最初に抱いた印象をすっ飛ばす程の、慈愛に満ちた笑顔だった。
「大丈夫だった?」
「う……うん」
呆然としたままの少女。今にも……再び、泣き出してしまいそうだ。なにせ、象二体が暴れたのを見て、最後には、人外の化物まで――
「お姉ちゃん、カッコよかったでしょう?」
「え?」
「ヒーローみたいだっでしょう? えいって、化物、やっつけちゃった」
「……う」
女の子は、一瞬、躊躇う表情を見せ。
次の瞬間には、満面の笑みで、ニッコリと微笑んでいた。
「うん! すごかった! アニメみたいだった!」
「そっかそっかー。照れるなぁ」
「お姉ちゃん、すごかった!」
「えへん。凄いでしょう?」
「わたしも、ああいうの、できるようになりたい!」
「うん。毎日元気に遊んで一杯御飯食べて沢山寝たら、できるようになるからね。……ん? あ、ほら、ママが迎えに来ているみたいだよ? じゃあ、またね」
「うん! バイバイ、お姉ちゃん!」
「うん、ばいばい」
少女と女性はお互いに笑顔で手を振り合い、別れる。少女の母親は、何が起こったの分かっていないようなのだが、それでも、女性が子供を助けてくれたことだけは理解しているのか、何度もぺこぺことお礼を言っていた。対して女性は、「いえいえ」と照れたように何度も恐縮して、さっさとその場を切り上げて、こちらに戻ってくる。
ぼーっとその様子を見ていると……彼女は俺の前まで戻ってきて、律儀にヘッドフォンとサングラスを回収すると、「さて」と俺の方を見た。
「もう立てる?」
「え、あ、ああ」
まだ頭がくらくらはしたが、立てないほどじゃない。ジーンズの埃を払いながら立ち上がり……俺は、彼女を見つめる。
「アンタ……一体」
その問いに……彼女は答えず、まず、嘆息した。
「御倉了。今のは、失態だ。失態にも程があるわ」
「っ」
「別にね。いいのよ。悪いのは相手だもの。力及ばず守れなかったことは、決して、悪じゃあない。だけどね……御倉了。私が気に食わないのは、『その力はあったのに』、貴方が……私がいなければ、あの子という犠牲を出してしまっていたであろうこの状況」
「そ……それは……」
言い訳、出来なかった。……確かに俺は、油断していた。色々なことを……舐めすぎていた。
悔しくてぐっと拳を握りこむ。
俺は、それでも、なにか言い返したくて……子供のように、話題をすりかえる。
「そういうアンタは……何者なんだよ。そんな力があるなら……なんで最初から……」
「はぁ。……まあいいわ。そうね。私も、ギリギリまで手を出さずに、結果、あの子に無用の心の傷を作りかけてしまった。それは反省しないと」
「…………」
彼女が、あの子をちゃんとフォローしていたことを思い出す。……くそ、なにからなにまで完璧で……余計に、ムカツク。
「でもね……本来なら、貴方が全部うまくやってほしかったのよね……私としては」
「はあ?」
「だって……こういう時に私が一番最初に動いちゃったら、試験もなにもあったもんじゃないでしょう」
「試験……だって? ……アンタ……何様だよ」
俺の睨むような視線に……彼女は「あぁ」とようやく自己紹介を忘れていたことに気付いたのか、ニッコリと、微笑んだ。
「忘れてたわ。ごめんなさい。私は……」
そこで一区切りし。
彼女は一瞬、何か、空を眺めるような仕草をし。
それから、もう一度、胸を張って、告げる。
「私は、水月鏡花。神無家の関係者よ」
「みづき……きょうか?……いや、水月 鏡花か。聞いたことがある。確か……」
俺やリエラのように、神無家には凄腕のサポーターがいた。それが水月鏡花。会ったことはなかったが……彼女が……。
水月鏡花は、そのまま、ニッコリともう一度微笑み……そして直後、ゾッとするような目で俺を見つめ、宣告する。
「御倉了。本日のただいまから、貴方の《生存試験》を開始します。この試験の後、私の審判により、貴方がこの世界に存続するべき存在か否かの決定が下されます。心して臨みなさい。異議は認めません」
「――は?」
「そんなわけで、これから、よろしく」
「――――」
ニッコリと手を差し出し握手を求めてくる水月鏡花。俺はその手を呆然と握り返し……。
そして、自分の、奥底からの警鐘を聞くのだった。
《この女は危険だ》
……日常が、壊れていく音がした。
これが、俺の最後の敵……《審判者・水月鏡花》との出会いだった。
――オルタナティブゴースト~水月鏡花の生存試験~――